祖母とゆっくり話す機会があって、祖母が小学生だった昭和20年代の食事について聞きました。
今回は餅つきと穀物の話が中心です。
祖母の実家は尾張地方の兼業農家で、ある程度は商店もある、町の出身です。
餅について
- 餅つきは年末と旧正月の年2回だった
- 年末は白い餅、旧正月は雑穀餅やあられ用の餅を中心についた
- 雑穀餅はきび・あわ・ひえをもち米に混ぜてついた
- 雑穀餅は日常食として、昼食に焼いて食べた
- 粉餅[1]水でこねた米粉や小麦粉を蒸してもち米と一緒についたものはつかなかった
特に興味深かったのは雑穀餅をついていたことです。
以前は飯としても雑穀を食べていたことが想像させられます。
また餅は必ずしも行事食というだけではなく、普段にも食べていたことがわかりました。
穀物について
- 小麦は脱穀して業者にわたすとパン(あんパン・ジャムパンなど)や乾麺のうどんと交換できる券がもらえた
- 大麦も同様に押し麦と交換できる券がもらえた
- 大麦は押し麦でしか食べたことがなく、引き割り麦や丸麦で食べたことはない
- そばは作らなかった
- 米は精米所で8分づきにして食べたが、貧しい家ではもっと茶色い米を食べていたという
- 炊飯に適さない出来損ないの米は、玄米のまま石臼でひいて粉にし、だんごにして味噌汁に入れて食べた
何度も聞いた話が多かったが、玄米を粉にして食べるというのは初めて聞いた。
玄米を昔の人が食べていたことに半信半疑だったのだが、少なくとも粉にして食べたことは確からしい。
その他の食事
- ニワトリを10羽ほど飼っていて、たまごを毎日2人で1個ぐらいずつ食べていた
たまごなどめったに食べられなかった、という話が出るかと思ったら、意外と食べていておどろいた。
比較的町よりの地域だったことが関係あるのだろうか?
まとめ
今回祖母の話を聞いて考えたことは以下の2つ。
祖母の実家では米がよくとれて、米と麦が7対3の麦飯を食べていた。
そんな家でも餅用だけとはいえ、戦後もまだ雑穀をつくっていたことがわかった。
飯用の雑穀も以前はつくっていたのだろう。
そのころの話を聞きたいが、わかる人がもう生きていないのは残念だ。
また玄米を粉にして食べたという話も貴重だった。
戦後すぐまで粉食としては玄米を食べていた。
では粒のまま玄米飯として食べた時代はあったのか?
今後の課題としたい。
脚注
↑1 | 水でこねた米粉や小麦粉を蒸してもち米と一緒についたもの |
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